命占の個人差について

2022年8月23日

新推命学 上巻 増永篤彦著 東洋書院 昭和61年
P.24~P.26
に以下の様なことが書かれています。
この先生は京都大学の大学院まで心理学を勉強し早稲田大学で教鞭を取った先生ですが、四柱推命を研究していた昔の先生で、面白いことを書いていますので、少し言いまわしが難しくて分かりにくいかもしれませんが、ここに書かれていることは、何も四柱推命に限らず、全ての命占の占術に言えることですので、皆さんの命占の参考になると思いここにアップします。

「人間の生日というものは、例えば明治から考えるとざっと三万を超える数があるが、四柱推命では、型式的には約五十二万の型までは分類可能ということになっている。とはいうものの、それは結局、幾組もの類型を掛け合してゆくことであるから、生日の十二運から導くところの十二類型、これを干支にまで細分して六十、これに年の通変星を加えて六百、月の通変星を加えて六千というようなわけで、各類型を非常に立体的且つ動的に考察してはじめて可能なことであって、もしも各々の星を断片的によせあつめるだけなら誰にでも共通した切々の性質をただ並べあげることに止まって、何等具体的な個人差を産み出すことが出来なくなる。即ち人間の性質というものはいくらよせあつめても複雑になるばかりで、決してまとまった一つの人間というものは類型出来ないわけである。
 現在迄の筆者の研究では、生日の六十の類型を遺伝的素質とみて、これに通変星の環境による後天的性格を加える程度であるし、生日を如何に細分してみても、人間の頭脳による具体的な把握力からみて、推命術による個人的類型というものはせいぜい六百を出ないわけであろう。従って形式上はいかに何万何十万の型が可能であっても、それがそのまま占術内容の精微さを物語るというわけにはゆかない。
 一般に、推命術の術者は他の占術にくらべて複雑精微の優越性を誇っているのであるが、そして、たしかに同じ周期学の中で干支術とか気学その他に比較して類型的に深いものを持ってはいるが、それが形式上分類が多いということに起因しているのであれば、少々見当違いということになる。勿論気学が、年盤と月盤の組合せで九九の八十一の類型が精一杯であることに比較すれば、分類を推命術の方が数多いことは事実である。しかしながら、大切なことは、類型の数が多いことではなくて、類型自身の力動性の問題である。数が多くて粗雑な平面的な類型であるよりも、数少なくても精密な立体的なものの方が優れたものであることは当然である。
 次に推命術の研究上大切なことは、素材としての生日の型がいわば無数の近くて殆ど同一生年月日の人がないため、ある日の型をその人のものと考え易いことである。我が邦に於いて同一生年月日時間の人間は男だけで約百人、同一生年月日であれば、約千人数えられる。もっとも、中年期ではハ割、晩年期では約三、四割に減りはするが、そういう点からみれば、推命術的類型は決して「この人」の純粋に個人的なものではないということになる。
その点、人相、手相では完全に同一の人間はないから、純粋に個差があらわれるものだと考えられる。ところが、遺憾ながらその完全な個差までを精密に研究し尽くす程度に人相、手相自身が進んではいない、また簡単に出来るわざでもない。まして、占術といえども法則性を適用してはじめて個差に近いものを認識出来るわけであり、法則性というものが元来個差をある共通の類型に於いて観察する立場であるから、占術的素材が精微な個差をもっているということは、何等占術としての優秀性を示すものではないことを知らなければならない。

と書いています。
つまり、命占は、個人の性格を全て特定するのではなく、ある程度の型に人の命をあてはめて分類するのだから、必ずしも全ての個人差を分類するものではないし、それで良いとしています。
そして、型が多すぎる占術は決して占術として優秀ではないとしています。
つまり、ある程度の型からはみ出すと、それ以上は個人差の追求は出来ないとしています。
これが同一生年月日時間に生まれた二人の性格と運勢についての答えですし、命占の本来持つべきスタンスでははないでしょうか?
命占の限界について説明しており、非常に興味深いです。

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