選擇叢書集要
陰陽五要奇書の序文の翻訳を載せてみました。
陰陽五要奇書の急所は「吊宮と替宮」であると言っています。
そもそも、頭に九を戴き足に一を履くというのは、『洛書』がそれによって数を明らかにしたものであり、事の兆しを徴として福を求めることは、箕子がそれによって『洪範九疇』を説き明かしたことに由来する。
人とはすなわち天地の心であり、事とはすなわち五行の根本である。
そのため、五事(貌・言・視・聴・思)を敬い用いることこそが、多くの兆しを検証し、五福を享受する方法なのである。
およそ吉兆や凶兆で、人の貌・言・視ること・聴くこと・思いに根ざして、それに応じて現れないものがあろうか。
漢の時代は古代に近く、まだこの道理をよく理解していた。
董仲舒、匡衡、京房、劉向といった人々は、よく貌や言といった人倫の根本に立ち返り、様々な兆しとそれに応じた現象を明らかにし、『洪範』の義が曇ることはなかった。
ところが、時代が下り徳が衰えるに及び、人々は五行を自ら統御することができなくなり、かえって五行に運命を委ねるようになった。
ここにおいて、郭氏(郭璞)の『青囊元経』が初めて作られたのである。
唐、宋の時代になると、楊筠松、曽文辿、呉景鸞、廖瑀といった人々が、民衆の禍福をその手に操り、墓や家の吉凶を支配するようになった。
そして、趙氏の『璇璣経』、陳氏の『按索図』、劉氏の『佐玄経』、釈氏の『宝海鈎玄』といった書物は、みな五行の奥深い道理を解き明かし、それらは名山に秘蔵される書物となった。
江山出身の孟隆という人物が、これらの秘蔵の書の錠を開け、覆いを取り払い、これらは全て『洛書』や『洪範』を源として、五行の石の不思議を探り、民衆の生活に役立てようとするものであると考えた。
鍂部の汪公と丘點もその説をかなり採用し、私の一族の季常甫がそれらを集めて編集し版木職人に渡して出版することになった。
思うに、陰陽方術家は、その説がこまごまと分かれて論争が絶えず、その著作は牛が汗をかくほど多く、その上、それぞれが自らの師の説を祖として互いに争い、その効果を検証しようとしても、まるで風を捕らえるように茫漠としている。
しかし、江山出身の孟隆が言うところの『五集』は、『洛書』を源とし、ひたすら「吊替」を重んじ、その効験は響きに応えるがごとく確かである。
そこで、これらを集めて刻み、『剋擇家指南』(日選びをする専門家のための手引き)と名付けて、これによって、吉事を招くには方策があり、凶事を避けるには方法があるようになり、かつてのように当てずっぽうで途方に暮れることがなくなるだろう。
その志は、なんと仁であり、あまねく人々に行き渡るものであろうか。
しかしながら、書経にあるように「六府を修め三事を正す」という天子の職分を助ける意があるというのであろうか。
善に従えば吉、悪に従えば凶となることは、寸分の狂いもなく、我々儒家には自ずから従うべき法則がある。
これを捨てて陰陽の説に固執するならば、天地創造のからくりに愚弄されることになるだろう。
そのため、同じ甲子の日であっても、周の武王は殷の紂王を討って広大な天下を得たが、紂王は不利となり滅亡した。また戦国時代の中山国は遂に敵を打ち破った。
これらは人の行いが天命を左右した証ではないか。
また、郭璞(景純)や劉基(伯温)は、卜占に優れ、あらかじめ災いや咎を知ることができなかったわけではない。
しかし、郭璞は日中に処刑され、劉基はついに胡惟庸の毒を甘んじて受けた。
これは、彼らがそれが天命であることを悟り、その正命を素直に受け入れたに他ならない。
孟隆よ、あなたは私のことを儒家の融通の利かない考えだと思うだろうか。
とはいえ、無知な民衆は、吉凶いずれをも憂えるものである。
そうであれば、孟隆先生の一片の苦心と、この度の出版も、どうしてやめることができようか。
ここに数語を書き連ねて、巻頭の言葉とする。
崇禎五年(1632年)秋七月、史氏 呉孔嘉、来雲軒にて記す。
一、陰陽家の出版する多くの書物は、古くから秘伝とされるものの、その内容はありふれた見聞に類するものが多く、人々の耳目を欺くだけで、どうして福をもたらすことなどできようか。
たとえ僅かばかりの貴重な内容があったとしても、厳重に箱にしまい込まれて世に出ることはない。
このようなわけで、真理を知る者はごくわずかであり、この道を生業とする者でさえ、その奥義を窺い知ることは稀である。
そこで本書は、専門的に「九宮吊替」を重んじて選び出した。
その根拠は『河洛經』に「吊宫は星煞(凶星)の馬である」とあることによる。
この「吊替」の法を知れば、吉事を招くには方策があり、凶事を避けるには方法がある。日選びはここに初めて確かな拠り所を得て、禍福の結果は火を見るよりも明らかとなり、間違うことはない。
一、本書は、巻頭に郭氏(郭璞)の書を置いたのは、彼を鼻祖(元祖)として尊ぶからである。
次に趙氏の書を置いたのは、その嫡流の系統を重んじるからである。
その次に劉氏、陳氏と続くのは、正しい伝統を受け継いでいるからである。
これによって、あたかも古の賢人たちを一堂に会させ、その精神が互いに響き合うかのよ
うであるが、これは決して、五行の石の不思議さをいたずらにひけらかすためではない。
実に、民衆の生活に役立てるためなのである。
近頃の日選びの専門家たちは、論争に明け暮れて収拾がつかず、まるで血で血を洗う戦場のようであり、そのせいで日選びの道理はますます世に明らかでなくなってしまった。
この混乱は、まず術家(占術の専門家)によって破壊され、次に儒家によってさらに破壊された。
なぜか。術家は、既存の書物に依拠したり、師の説を守るばかりで、変化の奥義を推し量ることもなく、まず無知ゆえに道を誤っている。
たとえ少しばかり深い見識があったとしても、商売のための占術であるゆえに、往々にして言葉を曲げて世間の人々に迎合し、知らず知らずのうちに禍の中に陥れている。
一方、儒者たちは、心の中ではその弊害を理解しており、読書の合間に聖賢の知恵を借りて天地の神秘を探求したりもする。
しかし、彼らの性質は融通が利かず、奥深く遠大な論に騙されやすい。
また、見識が狭く偏っており、頑固で一方的な考えに陥りやすい。
要するに、どちらも要点を得ておらず、拠り所がないのである。
一、丘平甫の『選擇歌』にこうある。「どの方向、どの場所にも凶星は巡ってくる。山(坐山)を避けても向(方位)からまた侵される。
ただ、その家自体が旺盛になる時と場所があり、この天の秘訣にこそ、よくよく心を留めるべきだ」。
この丘公の歌をよく味わい、本書『五刻』(五集)を参考にすれば、日選びのことは半分以上理解できるであろう。
一、郭璞(景純)の『葬書』にある「葬は生気に乗る」という三文字は、あらゆる風水書の内容を言い尽くしており、人口に膾炙している。
私(江孟隆)は日選びについても同様に「選びは生気に乗る」と言いたい。
この一言が、日選びの秘訣をすべて抉り出している。
かの楊公(楊筠松)も言わなかったか、「五行の『生』と『王』の時を追い求めるのが良い」と。
丘公も言わなかったか、「ただその家自体が旺盛になる時と場所がある」と。
その「生」と「王」の具体的な時期については、この『五刻』に全て記載されている。
熟読すれば、自然とその方法を会得できるだろう。
これはまさに、美しい鴛鴦(おしどり)の刺繍を手に入れ、それを縫うための金の針をもはっきりと渡されたようなものである。同志よ、大いに励まれよ。
一、この『五集』は、一つの流派の書として完成させたものである。
(郭璞の)『元経』が錠前だとすれば、(陳氏の)『按索』は鍵である。
錠前があれば鍵がないわけにはいかない。
趙氏や劉氏の書は、すべてその錠前の掛けがねを外して、その本旨を明らかにするためのものである。
そして我々(編者と出版者)は、これを出版(寿梨)して、その教えを広く伝えるものである。
ここには元々、「声に応じ、気が求める」という自然の妙理が働いているのだ。
どうして我々が天命を改め、神の力を奪うなどという大それたことをしようか。
私を評価するも、私を罪するも、私はどのような言葉も甘んじて受けよう。
一、『宝海(鈎玄)』は、「三元白星」に関する書であり、その源流は夏の時代の易である『連山易』にある。現在の暦(皇暦)に掲載されている年や月の図は、ただ日選びにおいて避けるべきことを示すためだけのものである。しかしこの『宝海』は、家の吉凶(宅論)や墓の吉凶(山論)をも論じており、『八宅』や『周書』の応用にも通じ、また『元経』や『按索』の細かな点を補うことができる。これらを合わせて初めて完全なもの(全璧)と言える。そこで、本書に併せて収録し、鑑識眼のある専門家の方々の評価を待つことにした。
一、『佐玄圖解』は、銓部(官職名)の汪公が出版し、都で長年流通している。
私の友人の胡君は、呉光禄公に仕えて白門(南京)に滞在した際、さらに『宗鏡』という書物を出版し、奥義中の奥義をことごとく公開した。
今回、この五種の書物を合わせて出版するのは、まさに全てを包み隠さず、洗いざらい打ち明ける(和盤托出)ものである。
見識のある方にご覧いただきたい。
一、この『五集』には、これまで刊本(印刷された本)がなかった。
物好きな人々が次々と書き写して伝えてきたため、「魚」を「魯」と、「亥」を「豕」と書き誤るような杜撰な写し間違いが少なくない。今回、苦心して校訂を行い、言葉が正しく意味を伝えるようにした。決して、勝手に文章を増減したわけではない。
蚺城の又玄仙客の江孟隆が記す。