戸越八幡神社のはじまり

品川の戸越八幡神社は、先日令和3年12月15日に新しく出来た社殿に神様を戻す遷坐祭りをしました。
社殿もかなり後ろに下がり参道が長くなって、且つ高さも出て素晴らしい神社になりました。
社殿の中には、三体の神様が鎮座出来る様になっています。
多分昔はこの当たりの神社では、天照皇大神、春日大社、八幡大菩薩の三体を祀っていたのではないか?と推測されます。

ところで、この神社の成り立ちはどうだったのか?
を資料を基に記しておこうと思います。
多分ここに書かれている内容は神社の看板の内容とは違うと思いますが、こちらの内容が本当の様です。

まず、はじめの資料は、八幡宮出現鎭座幷當山基立濫觴記(はちまんぐうしゅつげんちんざならびにとうざんきりゅうらんしょうのき)というもので、隣の行慶寺に残る資料です。
それによると以下の様な内容になります。

八幡宮出現と鎭座、並びに当山の成り立ちとはじまりの記録

そもそも当山に勧請された八幡宮は、山城国の男山石清水の八幡宮の分神であって、霊験あらたかな神体であった。

昔の神武天皇以降百五代の後柏原院の御代にあって大永六年(1526年)丙戌年のことであるが、当国は、まだ村落も珍しく、その頃当所はかろうじて五~六軒の住居がある程度だった。中でもこの街道は伊豆・相模の脇道であって、常に旅人の往来があった。

 その頃、当山行慶寺は、今で言う「池の上地蔵堂」の地の一つの草庵であった。この草庵の主は行永法師と言って、とても信心深い念仏行者であり、いつも旅人に苦難の思いを言って聞かせて草庵の片隅に施行所を作り、冬は白湯を出して、寒さとのどの渇きを助け、夏は清水を出して暑さをやわらげていた。

 さて、同年(1526年)秋の初めのある日の夕暮れに、山伏の姿をした男が来て言うには、「私は東国を旅する者ですが、のどが渇いて困りました。お願いですから清水を飲ませて下さい」とお願いした。すると、庵主もお願いのままに草庵の北西にある清水を汲んで来てこの男に与えた。すると、この男はお辞儀をしてこの清水を飲んで、「この水はどこの神水なのですか、実に美味しい良い水です。」と言った。それに庵主は「この地に湧き出る清水です。」と答えた。また、この山伏の男は、「お願いですからこの清水の水源を見せて下さい。」とお願いしたので、庵主はすぐにその水源に山伏の男を連れて行くと、頭を地面につけて足もとにおじぎをして言うには、「あなたは、多くの年月の間、善行を積み、特に念仏修行を怠らずに、いつも旅人に湯水を与えていました。そして長年に渡って大勢の人や牛馬の旅の苦労をねぎらって来ました。ですからその功績によって諸神や天帝が、あなたにこの神水を与えられたのでしょう。見ていてください、近いうちに必ずこの清水よりあなたを守るご神体が出現するでしょう。間違えありません。私は旅を急ぎます。」と言って急いで立ち去って行ってしまった。

 庵主は、なんとも不思議なことだなと思ったが、同年(1526年)八月十五日の空が一面に晴れ渡って静かな夜に、この清水は大いに湧き出て数仞という高さにまで吹き上げて、土砂と水とをことごとく巻き上げた。そしてその水中に一体の神像が出現した。

庵主は奇妙に思い、手を合わせてこれを見ると、果たして八幡大菩薩の神像であった。

 そこで庵主はこの神像を深く信じて敬い、草庵に安置したところ、近隣の人民は言うまでもなく、街道を行き来する多くの人達までもが色々な願い事をして行ったが、一つとして成就しないものはなかった。

そこで、古くからの言い伝えとして人々は、この草庵を「清水の上の成就庵」と伝えた。

 その後、慶長十一午年(1606年)江戸の都は、大変にぎわい栄えた地となり、郊外の野原までも人の数は増え、村の境界には、民衆の生活の基盤である街道を盛り上げたいという者が非常に多くなってきた。そして中でも江戸の南浦(品川周辺)の街道周辺の村で、「江戸を越えて明けき村」というところがあって、そこから「戸越の村」と呼ぶ様になった。

 ところで、神像が出現した跡地の池の上には、杉の木があった。そしてそれは昔、目印として杉を植えて、神像が出現した霊跡としたものであるが、その杉の古木を伐採しようとしても、再び新たに若芽が出てくるので、未だにその杉の木はそこにある。

 その出現した神像は、この草庵に安置し、その後当山は寛永十一年戌年(1634年 甲戌年)に検地の際に年貢の免除の土地として幕府よりお達しがあり、社地となった。そしてその後、当寺七世の覚誉上人の代の元禄元辰年十二月十五日(元禄元年十二月は戊辰年で1689年1月6日)に今の神社を再建し、鎮座した。

 この様に、明確な証拠がはっきりと現れていて、清水が勢いよく湧き出ている泉の中から出現した尊像であれば、武運長久と、万民豊楽の神徳をお願いして信じるのがよい。

  武州荏原郡戸越村

  八幡山成就院

  行 慶 寺

寛永廿未年(1643年 癸未年)九月

       むかし諺の奇歌に

  江戸越へて  清水の上の  成就庵

   ねがいの糸の  とけぬ日はなし

杉古木の圖

杉の木の道のり 品川宿より十五丁程(1,636.2m)

        目黒不動より八丁程(872.64m)

となっており、その他には、新編武蔵風起記稿(文化七年 1810年)では、以下の様に書かれています。

新編武蔵風土記稿

八幡社 除地20,528.937㎡(6,209.72坪)、村の東にある。神體は木像であって、長さは、約15cmの坐像である。村内の字藪清水という所より出現したと言い伝えられている。

勧請の年月は、はっきりしない。村の鎮守であって毎年の九月二十八日に神樂を演奏する。本社は、2.72727m×2.72727m=7.438㎡の広さで、その前に拝殿があって7.272m×4.545m(33.051㎡)の大きさで、それより約218mの間は、両側に松杉の並木が連り、その中央に石の鳥居が立っている。行慶寺別當とした。

行慶寺 除地1,838.0248坪あまり、八幡社の西にあり、浄土宗品川宿願行寺末八幡成就院という。開山は圓蓮社方譽西源大徳、寛文十一年七月十五日(1671/8/19)に亡くなった。本堂は118.98㎡、本尊は、三尊阿弥陀如来を安置する。坐像であって、約36cm。

観音堂 本堂の坤(西南)にあり13.22㎡、準胝観世音を安置する。

※除地(じょち 年貢を免除された土地で、寺社の土地や特別な由緒のある土地

 段(たん) 土地の面積の単位、10畝(991.74㎡)  19983.48

 畝(せ)  土地の面積の単位、30歩(99.174㎡) 495.87

 歩(ぶ)  土地の面積の単位、=一坪 6尺(3.3058㎡)49.587

 尺(しゃく) 長さの単位、10寸 30.303cm  九尺四方は、2.72727m×2.72727m=7.438㎡

 つまり二段五畝十五歩は、20,528.937㎡(6,209.72坪)となります。

 寸 3.0303cm   五寸 約15cm

 間 1.818m  二間半 4.545m 四間 7.272m

 町 六十間 109(.08m 二町 218.16m

ですから、遷坐祭りは旧暦と新暦の差はありますが、現在の地に鎮座した日を使ったことになりますので、この神社にとっては、非常に良い日であったと言えます。
ただ、惜しい事に、この神社のはじまりである池の上地蔵堂がどこにあったのか?がこの記録の距離から判断すると、おかしなことになります。
この記録の中でも出て来る通り、池の跡地に杉を植えたと書いてあるところから、戸越近くの一本杉元八幡神社が戸越八幡神社の元あったところとしていることが多いですが、この記録だと、目黒不動から約8丁としているので、大体 800m~900m です。しかし、目黒不動から戸越銀座駅でも直線で1.5kmありますので、800m~900mですと、この神社の元宮とされている一本杉元八幡までは、全く届かなくなります。
また、当時の品川宿は大きかったので、そこから1.6kmというのは、どこからなのか?起点がわかりません。
どちらにしても、昔どこにあったのか?が良く分かっていない様です。

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