年月日の十二支について考える

2021年2月26日

東洋の占いで必ず使う十二支について、年の十二支、月の十二支、時間の十二支がいったいどう言うものか?ということについて考えてみました。
(別にことさら取り立てて考えることもありませんが・・・・)
やはり普通なら、余り考えないことですが基本中の基本だと思います。
はっきり言って、読み流しても面白くありません。でも興味があれば、凄く面白いことだと思います。

そこで以前、歳陰紀年法については書きましたが、もう一度そこから書きます。
まず年の十二支は、どうして決まるか?と言う事を知るには、「歳陰(太歳)紀年法」を知らなければなりません。
これは、簡単に言うと、歳陰(太歳)が天球を周回する場所により、年数を数える方法のことです。
この場合まず本来、今の様な十二支よりも主に十二次というものを天球に1周する様に配置します。そしてこの十二次と逆に進む様に配置されるのが十二支です。
そして通常、その年1年間太歳が回る方位の十二支がその歳の十二支となりますから、例えば今年2007年なら亥の方位に太歳が回るので、亥年となりますが、この太歳は、またの名を歳陰と言い、実在する星である歳星(木星ジュピター)と逆周りに進む架空の星の影の様な星ことを言い、ややこしいのは、その周回方向が、単に歳星の正反対をぐるぐる回るでのではなくて、ちょうど十二次の星紀の年初めで歳星と太歳が重なり、徐々に離れて行く、そんな感じの運行をしており、歳星が玄枵にいたら、太歳は大火にいるという様にはなれて行く進み方です。
しかし玄枵、大火と言ってもよくわからないから歳星と太歳が丑と寅の間で重なって、歳星が子(西に進む)に行けば、太歳は、卯に行く(東に進む)という様に歳星は西から東へ進み、太星は、逆に東から西に進むということです。
だから今年なら、辰の方に歳星があると言うことになります。そして丁度木星の運行は約12年で1周するから、1年で天球を30°進むことになります。だから天球を12等分したと言うことです。そして歳星が進むには十二次を使い、太歳が進むには十二支を当てたと言うわけです。
子年ならそれは、卯の方位に木星がいる年と言うことになります。
また、木星が東から西に進むと考えたのは。地球を中心に天球を見た場合、地球の自転の方向から全ての星の動きは、東から西に動くのでそう見えるのです。
昔のことですから、どうしても地球中心の天動説でものが考えられていても不思議はありません。
十二次
星紀(せいき)    鶉火(じゅんか)
玄枵(げんきょう)  鶉尾(じゅんび)
娵訾(しゅし)    寿星(じゅせい)
降婁(こうろう)   大火(たいか)
大梁(たいりょう)   析木 (せきぼく)
実沈(じっちん)
鶉首(じゅんしゅ)
しかし上記の様に年の十二支は木星により裏付けられているのに、月、日、時間は、また違うと言うことが余計にややこしくさせます。
次は月の十二支です。

さて、面白いことに年が木星(ジュピター)により決められたでのに、月・日・時間の場合は、北斗七星を基準として決められています。つまり簡単に言うと北斗七星の斗柄(北斗七星の柄の部分)が指す方位から決められたのです。
北斗七星は、北極星を中心にして天球を回転しています。
だからまず十二支と十二直を天球に配当して、旧暦の月単位毎にその月の夕刻に斗柄が向いている方位の十二支と日の十二支が同じになる日が建(十二直の一つ)になる様に配当しました。 これを月建と言います。
そして実際には、月の始まりの日にその前の日の十二直を繰り返す様にします。すると、寅月なら立春後最初の寅日が建、卯月なら啓蟄後最初の卯日が建と言う様に配置して行きます。
尚、冬至の頃には、斗柄が北(子)を指す(建(おざ)す)ので、冬至を含む月を「建子の月」と言います。
つまり月建とは、旧暦の月の1日の夕方、北斗七星の柄の部分の星が指す方位のことを言います。それを十二支で現したものです。 だから、年の十二支とは、全く違うものなのです。
これが意外に知らないことで、知ってびっくりな事だと思います。
普段何気なく使っているんですけどねー。
しかし、月、日、時間は同じ北斗七星の巡回でどうして十二支が決められるの? のと思いますがそれは、つつきと致します。
十二支
子→北
丑→北北東
寅→東北東
卯→東
辰→東南東
巳→南南東
午→南
未→南南西
申→西南西
酉→西
戌→西北西
亥→北北西

十二直
建(たつ)
除(のぞく)
満(みつ)
平(たいら)
定(さだん)
執(とる)
破(やぶる)
危(あやぶ)
成(なる)
納(おさん)
開(ひらく)
閉(とづ)

つづいて月、日、時間の十二支を理解するためには、日周運動や年周運動を理解する必要があります。
まず、星が見える位置は、太陽の年周運動(つまり地球の公転運動)により毎日変わっていき、1年で1周するので、「月建」も毎月丁度十二支を1つずつ移動して行くことになります。 実は月の十二支は、この月建により定められたものであり、日、時間の十二支も星の日周運動や年周運動により十二支に当てられたものなのです。
そして、日周運動(にっしゅううんどう)とは、地球の自転によって、天球上の恒星やその他の天体が毎日地球の周りを回るように見える見かけの運動のことで、天体の日周運動は、天の北極と天の南極を結ぶ軸の周りを回るように見えることになります。
すると、地球が地軸の周りを1回自転するのには23時間56分4.09秒(1恒星日)かかるため、日周運動の周期はこの自転周期と等しいことになります。 すると、北半球で見られる天体は、北極星を中心に日周運動をしていて、北極星は地球の自転軸がある北極の真上に見えているため、時間が経っても他の星のように殆ど日周運動をしないことになります。
つまり、星は北極星を中心に回ることになります。
ここから、星は1日(約24時間)に東から西へ1周(360°)するので、
1時間では、 360°÷ 24(時間) = 15°西へ動くことになります。
だから2時間では、30°となるため、
360 ÷ 30°= 12
で十二支を当てることが出来、ここから、時間の十二支が決まります。

しかし、月や時間の十二支はいつも同じなのに、日の十二支は、毎日変化して行きます。
これを理解するには、年周運動が必要になります。
まず、星の年周運動とは、地球は、太陽の周りを公転し、1年かけて西から東へ1周しているので、地球上の同じ地点で、同じ時刻に星を観測した場合、その星は東から西へ1年で1周する様に見える状態のことを言います。
だから、星は、1年(12ヶ月)で東から西へ1周(360°)するので
1ヶ月では、360°÷ 12(ヶ月) = 30°西へ動き、
1日では、 360°÷ 365(日) = 約1°(0.98°)西へ動くことになります。
すると、
24時間 × 60分 ÷ 360°= 4分から
1゚は時間にして約4分となり、星は毎日約4分ずつ早く昇って、4分ずつ早く沈んで行くこととなるので、
1ケ月で120分(30゚)も早く昇って来るということになります。 (だから月の十二支が子→丑→寅と進んで行くことになるのです。)
そこで1年は、24時間(360゚)なので、ちょうど1周分となり、地上から見ていると、太陽は1年間に 365回転しますが、その間に天球は 366回転していることになります。こうした動きを年周運動と言います。
ですから、この年周運動により、同じ場所、同じ時刻でも見える星が違うようになるので逆に同じ星を見ていると位置が毎日動いて見える様になります。
そこで、これに北斗七星の動きを合わせて、日の十二支が決められたことになります。
つまり、普段何にも考えないで年・月・日・時間と十二支は普通に使っていますが、本当はずいぶん違いがあることに驚きます。
ちょっと難しかったかもしれませんがし、実際の占術には全く役に立たないことであくまで雑学ですが、こういう基本って結構大切ですよね。と思います。

補足として、木星の公転周期は11.862年なので、結果として一年間で十二次の一次と少し分だけ進むことになり、約86年で一次(太歳では一辰)分ずれてしまいます。 これが「超辰」であり、このずれを直すために秦時代に始皇帝元年(紀元前246年)は「木星は亥にあり、太歳が寅にある年」として太歳の新基準を設けました。
そして、前漢時代には、太初元年(紀元前104年)の太初暦で「超辰」をおこない、「丙子」を「丁丑」に改めました。
しかし、その後、今度は、三統暦(さんとうれき)で「超辰」はそれまでの約86年に一次のずれから114年に一次ずれと定義し直し、再度太初元年を太初暦同様「丙子」に戻し、太始2年(紀元前95年)を「乙酉」から「丙戌」へ「超辰」しました。
これにより三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始 2年から見かけ上同じになりました。
しかしその後、何故か、後漢時代に「超辰」を修正すべき年に修正をしなかったので、太歳とは関係なく機械的に干支を進める干支紀年法が使われるようになりました。
だから今の太歳と木星は直接は、関係していないのですが、考え方は知る必要があります。面白いですね。
因みに木星は太陽を中心として西から東に回ります。従って、今の太歳がイコール木星ではないことはわかると思います。

公式LINE 友達ボタン

友だち追加