田中胎東という人

2020年8月5日

気学や干支九星を勉強している人なら、田中胎東先生の名前は皆聞いたことがあると思います。しかし、いったいどんな人?という事は余り知られていませんし、そういった文献も余りない様です。そんな中で、初代山本光養先生の書かれた「気学と私」の中に少しだけエピソードが出てきて、どういった人だったのか?何となくわかります。
まずこの先生は1898年11月生まれ 戊戌3年 癸亥5月生まれです。

それで、例えば、今では普通に開運法として行われている「お水取り」についてですが、現在、お水取りは、田中胎東先生から広まったとされていると思いますが、この本によると、以下の通りの様です。

当時、新橋や柳橋の人々が大勢相談に来られたのですが、吉方転居を勧めても、警察が大変やかましく、一定区域内に住んでいないといけないとか、言って干渉される様な時代だったのです。また土砂撒きをしようとしても、大勢の人が一ケ所に住んでいるので、その人には良くても、他の人には悪いという事になるので、気学上開運の方法を指導することが出来ず、万策尽きてしまいました。そこで考え抜いた結果、その人達にお水取りの方法を教えたのが始まりです。月日、時間の吉方の方位から水を持って来て、自分も呑み、来るお客にも自分を贔屓にしてくれる様にと呑ませました。また、商売をしている人には、商売が繁盛するからといって勧めたのです。この事を当時習いに来ていた田中胎東君は、「先生、それは簡単で良い方法ですね」と言って感心していたが、後日、田中君は弟子の人々に一生懸命勧め、その流れをくんだ人々は、お水取りを今日の特効薬の様に勧めていすのですが、私は現在色々と経験を重ねた結果、別に悪い事ではないが、余り効果のあるものではない様になったのです。むしろ万策尽きた時の窮余の方法として考え出したのですが、若気のいたりだったと思い、むしろ反省している位です。「気学と私」より

なんか、結構軽いんですよね。多分時代は、大正末期頃の様ですが、こんなんで「お水取り」が広まっちゃったんですよね。それで山本光養先生は、まるでドリフのコントの様に「だめだこりゃ~」の様なことを言ったとか、言わないとか。

それとか、田中先生は、気学を山本光養先生のところで1年勉強し、園田真次郎先生のところで半年間だけ勉強したら、昭和元年に何を考えたのかアメリカへいっちゃいました。当時は当然船でしか行けませんから、行くだけで1ケ月ぐらいかかった様です。それなのに、旅費にお金がかかり過ぎたとか、水が合わず、体をこわしたとかで、サンフランシスコに約20日間滞在しただけで、行った時の船に乗って帰ってきちゃったそうです。永住するために行ったのにですよ。結構無計画ですし、ここでも軽さが出てきます。

しかしこの人の凄いところは、帰って来たら、多分、本命三碧なので、口も上手かったのでしょう。すぐ大先生になって、上でも書いてある通り、弟子を持てる様になっていることですし、当時ジャワ糖という会社の専務だった石原松之助というパトロンをすぐ見つけちゃって鑑定所も作ってもらっちゃたことです。でもやっぱり亥五黄月生まれなので、巽宮四緑破ですから、この石原さんともすぐ喧嘩別れしてしまい、園田先生や山本先生とも疎遠になってしまい、どうも人間関係が余り上手くなかった様です。(月盤そのものです。)

そして三碧の生来の性格である新しい物好きなところもあって、最初は、気学に興味を持つと、毎日でも山本先生のところに勉強に来たそうですし、その後、お水取り、寝所移動など、それまでの気学にはないものを取り入れます。
ここでは書いてませんが、この当たりを見ると、陰遁暦もそんなに深く考えなかったのではないか?と思えて来ます。
ただ、傾斜宮に天道を持つ暗剣殺生まれなので、運勢は強く、しゃべることは得意な人だったろうし、自分の思う通りの人生を生きて、人の言うことはほとんど聞かなかったろうなあ~と思います。写真の見た目と随分違う感じです。

そして最後は、軍部で「日本は戦争に負ける!」なんて言うものだから、最前線に送られて亡くなられたそうです。(これは、「気学と私」以外の本です。)思わず「空気よめよ~」ってチコチャンに言われそうですねけど、三碧ではちょっとわかります。
この様に見て行くと、頭は良いし、弁もたつが、いっちゃいけないこともいっちゃうので、回りを怒らせる感じの人で、三碧特有の軽い感じの人だったみたいです。多分。私が感じたのは、こんな軽い人だったの?と言う印象です。

因みに、この田中胎東先生は、伯母さん(父方の姉)であり、また義母である、矢の倉の福井楼というところの女中頭の人の紹介で気学を勉強する様になった様です。
ほんのちょっとですけど、田中胎東先生の人柄がわかります。

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